2017年11月からヴィーガンになった。
1年ほどの間、ヴィーガニズムを通していろいろな経験をし、今まで考えもしなかったことを知ることができた。
最近、ヴィーガンになったメリットを考えていたら、世界を疑う力がついたことだと思った。
大げさかもしれないが、要は「自分が見ている世界は、真実か?作られたものか?」という視点を得たということだ。
そこで今日は、私がヴィーガンになって世界を疑った話をしよう。
世界を疑うきっかけ
ヴィーガンになってからネットで菜食について調べるようになった。
その過程で、動物虐待や屠殺のビデオを見ることも多くなった。
動物が苦しんだり、殺されている様子を初めて見た時はショックだった。
特に狐の毛皮を剥ぐシーンを見た時は「人ってこんなに残酷になれるんだ!」と頭を殴られた気分だった。
この手のビデオは決して気持ちの良いものではない。
そのため、見るのを拒否する人も当然いる。
しかし、私はこういうビデオを見て良かったと思っている*。
自分が見ている世界がいかに表面的なものかを知るきっかけを与えてくれたからだ。
*もちろん残酷なことが行われないに越したことはないし、見る必要のない世界が1番。
お人好しの牛、というイメージ
ある時、私は虐待される牛のビデオを見る機会があった*。
牛はとても苦しそうで、のたうちまわっていた。
恥ずかしながら、私は牛に対して、「ボーッと生きてるお人好しの牛はステーキになっちゃっいました★でも今までお世話してくれたからOKだよ★」というお花畑なイメージを持っていた。
しかし、ビデオの中の牛はそれとは全く違っていた。
その時、「ボーッと生きてるお人好しの牛」はどこから来たんだろう?と疑問が湧いた。
私の中から自然に生まれたイメージだろうか?
そんなことはない、牛と接した経験はゼロである。
おそらく広告や商品のパッケージに描かれた牛の様子が、少しずつ蓄積されたものに違いない。
幸せな人生を送り、最期の日に「おいしく食べてね」とモーと鳴く牛のイメージが頭の中で踊った。
それは虐待ビデオで見た牛とは別物だった。
利益を得る誰かにとって都合の良いイメージであった。
その時、「私が持っていたイメージは幻想だったんだ…」と思った。
*牛が飼育の範囲を超えて常に暴力を受けていると言っている訳でない。ただ、そういうケースが実際ある(動画などの証拠がある)。そして圧倒的に弱者であり言葉を持たない牛は、自力で改善する力を持たない。
世界を疑わないと、選ぶ権利を奪われる?
それ以来、どんなポジティブな「大切に育てました」「動物との絆」といったメッセージにも「本当のとこ、どうなん?」と疑いの目を向けるようになった。
どんなに丁寧に育てられても、
牛が幸せを感じて飼い主と交流する瞬間があっても、
死や痛みを喜んで受け入れる牛はいない。
牛が本来持っている思いを歪曲して人々に伝えるのは、問題ではないだろうか。
奴隷に「ご主人のためなら死んでもいいです!」と言わせるようなものだ。
(だから私はどんなに辛くても、大人になったら屠殺などのビデオを見てから動物性食品を食べるか決めるべきだと思っている)
また「良いイメージのみに晒され続けた人は、『選択する発想』さえ与えられない」という問題も考えるようになった。
動物の権利にピンと来ないなら、環境問題で考えても良い。
ある産業が環境破壊の大きな原因となっている場合、人々にはその産業を利用するか選ぶ権利がある。
しかし良いイメージだけを与えられた人は、疑問の余地が生まれず「取捨選択しなくてもOK」と思って暮らして行くことになる。
これってヒドくないだろうか?
ある日いきなり「実はこの産業のせいで、環境破壊はすすみました。もう後戻りできません。」と言われて愕然とするのは御免である。
参考
気候変動対策に肉の消費減が不可欠、「欧米で9割減」提言 研究 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News
少なくとも「売る側にとって都合の良いイメージ」に日々さらさている」ことを意識する必要があると思った。
世界を疑って生きることは、自分を守ることでもあるのだ。
最期に
以上が私の世界を疑った話である。
なおヴィーガニズムに限らず、他の産業、政治、宗教にも同じ思いを抱いている。
映画『マトリックス』で主人公が「真実を知る赤い薬」と「そのままの世界で生き続ける青い薬」を差し出されるシーンがある。
私のヴィーガン体験は、真実を知る赤い薬だったと思う。
と言っても、もしかしたら、このヴィーガンの状態からまた別の赤い薬を飲む時が来るかもしれない(笑)。
最後におすすめの動画を紹介しておく。
ではまた~