ツイッターで「ヴィーガンは植物の命をどう思っていますか?」という質問を見るたびに、「そういえば、命ってなんだっけ?」と考える。
ざっくりと「生きてること」とは言える。しかし、改めて考えると、命を説明するのは難しいことに気がつく。
と言っても、命については科学的、宗教的な面から、すでに多くの議論がされている。バカが1人で悩むより、本を読む方が良いかもしれない。例えば「脳死」や「堕胎の賛否」などが良い切り口になるだろう。
そう考えると、なんとか命を理解できそうである。しかしこんな質問もよく見かける。
「動物も植物も、生きていることには変わりがありません。命は平等ではないですか?」
命だけでも難しいトピックなのに、「平等ですか?」と来たら、ソクラテスあたりに生き返ってもらうしか無い気がしてくる。
しかし、ソクラテスを生き返らせる訳にもいかない。そこで、思考を巡らせてみることにした。
今回は、「命は平等か?」という質問を考えることで、ちょっと頭の体操をしてみたいと思う。
あくまで頭の体操なので答えはないが、おもしろがって付き合ってくれたら嬉しい。
「命=火の玉」のイメージで考えてみる
日本語では生きていることを「命が”ある”」と表現する。肉体とは別に、命というものが体内にあるイメージを漠然と持っていないだろうか。
確かに、科学が進化して、肉体を人工的に作ることができても、命を宿らせないと動かなそうである。
命がない肉体は、電池の入っていないおもちゃのようなもの。そして、命は神様とかしか宿らせることができないんじゃ?と思ったりする。だから私たちは命に神秘を感じるのかもしれない。
ところで、「命」を考える時、私は火の玉のようなものを想像する。
火の玉の形をした「命(魂)」が肉体に宿っているイメージだ。実際、ファンタジー作品でよく使われる表現である。
なので、ここでは命=火の玉ということにする。
さて、想像力を膨らませて平等について考えてみよう。
まず、人間、犬、りんごの火の玉をちょっと借りてくる。そして一列に並べてみる。さあ、3つの火の玉はどう見えるだろう?
長く輝く火の玉、すぐ消えてしまう火の玉、いろいろあるだろう。しかし、どの火の玉も美しくかけがえのない物に見えるのではないだろうか。
そう考えると、あらゆる命は確かに平等に思えてくる。だって命という火の玉はどれも美しいのだから。
また火の玉には次のような点もあり、ますます「命は平等」な気がしてくる。
- 命は1個。使えるのは1回ポッキリ。
- 命には必ず終わりがある
※死の定義が怪しい生物や、分裂する生物もいるが、頭の体操なので今回は上記2点が条件ということで勘弁してください。
そう、命にはこの「絶対に死ぬ一発勝負」というルールが平等に課せられている。さらに、生きるためには、他の命も奪うという残酷ルールまである。もちろん、時には自分の命も平等に奪われる。
だから、どの個体も必死で生きる。このように考えていくと、「命は平等」はあながち間違いでは無い気がしてくる。
平等な命を天秤にかける
火の玉イメージで行けば「命は平等」と言えそうである。
しかし、映画『アメリ』にこんなシーンがある。
ニューススタンドで、ダイアナ妃死亡と書かれた新聞を買うアメリ。すると店員が話しかける。
店員「残念ねぇ、ダイアナは若くて美人だったのに」
アメリ「ブスで年寄りだったら、死んでも良いってこと?」
店員「マザー・テレサくらいの歳ならね」
私たちは若い人の死の方が痛ましいと感じる。でもアメリの言う通り、若い美人の命も、ブスの老人の命も同じ命。どんな人の死だって痛ましいのである。
さらに、巷にあるこんな質問も思い出した。
「母親と恋人が溺れています。あなたは1人しか助けられません。母親を助けますか?恋人を助けますか?」
ハンターXハンター(笑)
人によって「娘と息子」だったり「親友と彼女」だったりするが、基本的には選べないようにできている。
しかしこう言ったらどうだろうか。
「5才児と100歳の人が溺れています。1人しか助けられません。どっちを助けますか?」
今度は5才児を選ぶ人が圧倒的に多いのではないだろうか。100歳はもう十分生きたと思えるし、5才児は人生これからである。
私が100歳を選んだら「どう考えても5歳でしょ!」とお叱りを受けるかもしれない。
つまり、これから生きる長さを基準にして命を天秤にかけたのである。
あれ、命は平等なんですよね?平等の命を天秤にかけてもいいんでしたっけ?
植物か、動物か
5才児を選んだ人の多くは、「これから続く命の長さ」を基準にしただろう。もしくは「将来、子供を産む可能性があるから」などもあるかもしれない。
では次はどうだろう。
「豚が溺れています。豚の横にはまだ生きているりんごの木が浮いています。どちらかしか助けられません。どっちを助けますか?今すぐ助けないと同時に死にます。」
さて、今度は圧倒的に「豚」が選ばれるだろう。なぜなら、私たちは豚が苦しむことを知っているからだ。
いやいや、りんごの木だって苦しいかもしれませんよ?今はまだ発見されていないだけで、植物にも痛覚があるかもしれませんよ?
それでも多くの人は豚を選ぶはずだ。なぜなら動物が苦しむのは確実だからだ。
中には「豚は食べられるから豚を助ける」という人もいるだろう。でもりんごの木だって実がなれば食べられる。また「これから続く命の長さ」でいったら木の圧勝である。
しかし、私が水へ飛び込み、豚の横からりんごの木を引き上げたら、残酷なヤツだと思うはずだ。
こう考えると、「命も平等」という人は「あれ?」と思わないだろうか。
命は平等かもしれないけど、選択は別
命は平等と言われれば、「そういう見方もできますね」と答えるだろう。しかし、平等かもしれないが、私たちは命に平等に接していない。
私は「5才児」と「溺れる豚」を助ける。つまり平等でも、公平でもはなく、「命の長さ」「苦しみ」など、あらゆる基準で命を選んでいる。
あなたが「動物の命も、植物の命も平等」と言うなら豚もりんごの木も、同じように検討しなければならない。でもやっぱり違いませんか?動物と植物って。
このように5歳と100歳、豚とりんごの木、5歳と豚…などと考えると、ちょっと新しい発想が出てこないだろうか?
なお「この記事の質問はクソだ!そもそも設定の仕方が…」などの意見がある方はツイッターなどに私あてにつぶやかず胸にしまっておいてください。豆腐メンタルなんで(笑)。
以上!
他にも、例えば「ローズマリーの枝を切って水差しして、ローズマリーの株を2つに増やしたら命は1つ2つか?」とか、「枝を切られたローズマリーは死んじゃったけど、水差しは生き残ったらそれは同じ命なのか?」とか、植物の命についても気が向いたら考えたいと思う。
みなさんが「命は平等?」について考えるきっかけになれば嬉しい。
なお夫に、「これ公開したら、ヤバイ人だと思われるかな?」と聞いたら「うん」と言われた…。Oh。
※あくまで現時点の私個人の意見です