日本で過大評価される「いただきます」の習慣

いただきます

ヴィーガンになって食の問題に興味を持つようになってから、食事の際に「いただきます」という習慣が日本では過大評価されていると思うようになった

今回は、ここ最近モヤモヤしている日本の「いただきます」についての考えをまとめてみた。

「いただきます」=食べ物を大切にしている

いただきます?

食べ物で遊び、捨てる日本人

少し前、フィンランドで「Only in Japan」というテレビ番組が放送された。そこでは短く編集された日本の古いバラエティ番組が紹介されていたのだが、やっていることはケチャップの掛け合いであった。他にもうなぎを素手で掴むなどの動物虐待があり、あきれかえった。

Only in Japan – Katso ilmaiseksi mtv-palvelussa

このように、日本のテレビではしばしば食べ物=おもちゃである。

卵投げ、パイ投げ、ワサビ寿司など、だれでも一度はテレビで見たことがあるのではないだろうか。フィンランドでも似たような番組を見たことがあるが、日本の番組はその何倍も食べ物をおもちゃにしている。

日本の食料廃棄率は世界トップクラスとは言えないが、多いことは確かだ。

○ 日本の食品ロス(年間約500~800万トン)は、世界全体の食料援助量の約2倍。
○ 日本のコメ生産量に匹敵し、日本がODA援助しているナミビア、リベリア、コンゴ民主共和国3カ国分の食料の国内仕向量に相当。

年間約1700万トンの食品廃棄物が排出。 – 消費者庁

食べ物で遊び、えげつない量の食品を捨てている。客観的に見れば、食べ物に対するリスペクトが低い国ある。

しかし不思議なのは、さんざん食べ物を粗末にしておきながら「日本人は食べ物を大切にする」と思っている人が多いことだ。日本で25年以上住んでいた経験から言っても、日本には「だれよりも食べ物大切にしている!」という強い自負すら感じる。

これって矛盾していないだろうか?

私はこの矛盾を生み出すのは「いただきます」の習慣では?と考えるようになった。

「いただきます」という目隠し

だーれだ

だーれだ?

例えばツイッターでヴィーガンが「豚は痛みや苦しみを感じる存在だから、食べるべきではない。環境にも悪い。」と言うと「豚も野菜もひとつの命。命をいただく、だからいただきますなんです」と、急に「いただきます推し」が出てくる。
※特定の人のことを批判しているわけではないからね。私も「感謝」ってずっと言ってたし…。

まあ、推しは良いのだが「命をいただく」と言いながら、その命が置かれている状況には無関心な人が多いのが残念でしかたない。それでいて「命、感謝」とポエティックになっていくのはなぜだろう。

不思議なことに、問題が解決するわけではないのに、あらゆる食事を美しいものに変えてしまう魔力を「いただきます」は秘めている。

まるで、誰かが食の問題について考えようとすると、後ろから目隠しをしてくる小悪魔のようだ。

「遺伝子組み換え作物の問題か~ふむふむ。うわっ!」
小悪魔「だーれだ★」
「えっ!この声は…いただきますちゃん?」
小悪魔「あったりー!地球にある命をいただくから、いただきますダヨ★」
「そっかー!命を大切にする日本の素晴らしい習慣だよね!感謝★(まあ遺伝子組み換えだろうと、残さず食べなきゃね)」
…という展開になっている気がしてならない。

もちろん、こんなのは魔力でもなんでもない。単に人々が「いただきます」を過大評価しているのだ

日本の食の問題を考える時、この「全ての食事を美しくしてしまう、いただきますの習慣」が人々の思考を邪魔していると思う時がある。

また「いただきます」は「もらう」の謙譲語から派生した言葉のせいか、「いただくんだから、出されたものに文句言うなよ」というメッセージを感じなくもない(考え過ぎ?)。

「いただきます」は単なる習慣にすぎない

まあ、人やものに謙虚になろうというコンセプトは嫌いじゃない。作った人へ感謝の気持ちを伝えるのも大事だろう。

しかし問題は、食材にはぜんぜん感謝が伝わっていないし、謙虚にもなっていない点だ。だって、ただ「いただきます」と呟いているだけで、なんのアクションも起こしていない(アクションを起こして、さらにいただきますと言う人もいるが)。むしろ謙虚になった気になってしまう方が質が悪い気すらする。

問題をひとつひとつ検討するのでなく、すぐ感謝に落とし込んでしまうのは、弊害とも言えるのではないだろうか。

そもそも「いただきます」と言い始めたのは昭和初期らしく、たまたま流行った新しい習慣なのである。そんなに大それた意味があるとは思えない。

ところで、フィンランド人はバスから降りる時に運転手に「ありがとう」と言う習慣がある。しかし日本人がバスの運転手に「ありがとう」と言わないからと言って、バスの運転手に敬意がないわけではない。フィンランド人も日本人も同じくらい感謝の気持ちがあるけど、「ありがとう」を言うか言わないかは習慣の違いにすぎない。

バスの運転手の搾取が問題になった時に、「運転手もひとつの労働力。労働力をいただく、だから下車時にありがとうって感謝するんです」とか言ったら、いやいやいやいや!と思うはずだ。

同じように食の問題を考える時には、「いただきます」や「感謝」は切り離して考える必要がある。私たちは、それが出来ているだろうか?

最後に

まだ自分の中で意見が固まっていないのだが、ここ最近思っていることを吐き出してみた。

ただ最近、動物虐待や環境問題に関する食のニュースが多く、「いただきます」と言うたびにいろんな思いが駆け巡っていたので、書けてちょっとスッキリした。

私もなにかすごい取り組みをしているわけではないが、食がらみの問題を考える時は「いただきます」や「感謝」というフワフワしたもにとらわれず、客観的な視点で問題を考える人が増えてくれれば嬉しい。

一緒にがんばりましょう!